2016年03月18日

どうやら春になったらしく

201603racoon.jpg東京ではもうすぐ桜開花が発表されそうとのことだが、土手では雉が姿を現し昼間っからタヌキがうろちょろしている。

このタヌキというやつは極東の在来種で、沖縄・台湾には生息せず、毛皮の材料のためロシア・フィンランドあたりにもっていったものが繁殖して生息していると書いてあった。 アメリカのラクーン(アライグマ)とは兄弟ではなく、ラクーンはアライグマ科、タヌキはイヌ科だそうだ。

よく見るとイヌに似ているような気がする。昔浅草でタヌキを食わされたが・・・いかんなあれは。

2016年03月14日

地震のときは

津波映像のインパクトかどこもかしこもただ事ではないというムードであり、東京のコンビニの棚もガソリンスタンドのタンクもみんな空っぽになって、東北を思いにわかに買い占め自粛のムードが高まったわけであるが14日に協会から電話がかかってきて「石巻の全日ARで帰ったこれない人が一人いるので何とかつれて帰ってくれ」と言われた・・・生来調子乗りであるので「ホイよ」と返事してしまった。理由は簡単で、スタッドレス履いてるひとはあいつだけだというものであったのであるが、それ以上にあいつはイチビリであるということが知れ渡っていたのかもしれない。電話を受けて1時間後には出発していた。

4号線は原発がややこしかったので新潟-山形まわりで、石巻から大崎までたどり着いていたおっさんAを引き取りに行ったのだが、途中新潟県ラのひとがガソリンを調達してくれていて(それにもいろいろストーリーがあったに違いない)それをトランクに入れて雪道を走る羽目になった、新車なのに・・・静電気の火花が起きたらどないなるねん・・・とも思ったのであるが金属製のガソリンタンク6個がこすれないように毛布や段ボールで区切って積載した。この時は3年ぶりに真面目になった。

2011-3-14map.jpg鶴岡から新庄までの47号線を直進すれば宮城県大崎にたどり着く筈であったのだが宮城県側は災害復旧車しか通行できないともことで尾花沢から南下して天童48号線-仙台経由の戦略であった。山形県鶴岡までは降雪の中も順調であったが、鶴岡から新庄に向かう47号線は圧雪状態で雪が降っていて重機はみんな沿岸部に出払っていて除雪がない・・・ちょっとまずい気持ちになったがとにかく難所はさっさと抜けようと若干急いだのであるが・・・47号線では車は全く走ってなく我が車はマリオカートみたいになっていたが大丈夫であった。あちこち停電で真っ暗であったが3時間近くかかって新庄を経て天童に南下したのだが・・・すごいな地元の軽は・・・特攻機のような勢いで追い抜いていくではないかい。

天童から仙台に抜ける48号線に入ると目の前を道路公団の黄色い車が走っていた・・・こりゃ雪で峠が通行止めになるなと思ったので失礼ながらクラクションを鳴らして追い抜いて公団の前に出た。果して次のラジオの情報では48号は雪で通行止めになったと言っていた。峠のトンネルを抜けてしばらく行くとゲートが下りていて、仙台側からの通行を止めていた。あそこで止められていたらたどり着いとらんかったでな。下り坂の最後に作並温泉というのがあって、これが温泉パウダー作並の湯の作並かと学習したのであるが旅館は真っ暗であった。

仙台から大崎まで北上する間、ガソリンスタンドには数百台の車が列をなしていたのだが、きっと給油まで何日もかかったのであろう・・・。仙台から大崎までの4号線沿いは暗かったせいか被害はあまりないように感じた。果して避難所の工業高校体育館に到着すると門の近くでおっさんAがニコニコして待っていた。内心「おやじぃー」と思ったのだが、よそ者なので体育館内には入らなかったという言葉を聞いて「寒かったやろぉー!」とねぎらいの言葉が出た。おっさんAの車は石巻の津波でぷかぷか浮いたそうだが水が引いた後幸いにもエンジンがかかりすぐに内陸部に移動したそうである。運転席の床にはまだ水が残っていたが高い車はコンピューターの防水もしっかりしていたのであろうな。

てなわけおっさんA車と自分の車に石油ポンプで給油し、残ったわずかなガソリンをそっと残して逃げ帰ったわけだが・・・今回も雨に濡れた、3号機の・・・。 かえってディーラーに訳を話してドアの隙間やら下回りを徹底洗浄してもらったのだがディーラーは金をとらなかったで。 今度もあそこで買わないかんやろな。
posted by ぐ at 12:51| Comment(1) | くーだらないはなし

2016年03月10日

東北の地震から

5年経とうとするが、あの日は石巻の全日ARに向かって東北自動車道を走っていた。1週間前から今思えば前兆とも思える相当規模に揺れがあったので、例年なら早朝でかけていたのだが、なんとなく嫌な気がして昼食後に出たのだが・・・大好きな国会中継をラジオで聞いていたら緊急地震速報が鳴った。ほとんど馬鹿にしながらも念のためにと思いブレーキを踏んで時速100km/hに落とした途端、対向車の照明を遮蔽する中央分離帯に何百本も並んだ板が風になびくチューリップのごとくガチャガチャ音を立てて揺れ始めた。前を見ると路面が旗のようにひらひら波を打っていて、その先のトンネルは形状を変えないそのままの形で上下左右に小石を落としながら動いている。「うぁ!本物だと」と思い路肩に車を止めた。しばらく揺れっぱなしでふとバックミラーを見ると路肩のガードレールが沈んでゆくではないかい。カメラを取り出す心の余裕もなくハザードを点けて走行車線をノロノロ移動した。心は完全に臨戦態勢ではあるが、このまま石巻に突進するか引き返すか判断に迷っているとさっきまで津波警報だったものが大津波警報、予想10mなんて言い出した。聞いたとたん「はぁーい!」と右手を上げて返事してしまった。

東京へUターンしようと福島で高速を出たのだが入り口はすでに閉鎖されていた。国道は渋滞で遅々として進まなかったのだが、不思議にガソリンスタンドには車がなく(尤も停電でほとんどのポンプが動かなかったのだが)、1か所看板の電気がついているスタンドがあったので窓を開けて「ポンプ動いてるっぺ?」と大声を出すとOKサインが帰ってきた。一台もいないスタンドで満タンにして国道に戻ったが全然動かず、仕方ないので脇道から福島市内に戻り、ルートインの駐車場をお借りして車で一夜過ごすこととした。市内は停電であちこち崩れてはいるが、コンビニでは整然と人が並び店員のヤンキー兄ちゃんも一生懸命客の整理に当たっていた。マニュアルの指示だろうか当初客は泊めないと言っていたルートインだが、夜中になって客を部屋に入れる判断をした。ちょっとでも寝ておこうとチェックインしたが懐中電灯と水を渡され、5p程ずれた非常階段から部屋に入った。もちろんドアは開けっ放しで電気もなく寒い。おまけに4階で余震の揺れはさらに大きい。寝ることもなく数時間で車に戻ったのだが、ルートインの奴普通に宿泊料取りやがったぞ。あれはポッケナイナイだと今でも信じて疑わない。

地震当日、福島では携帯が全く通じなかったのだがデータだけは時々送れた。通話は時々繋がったが東京方面は全く受け付けないので試しに島根にかけてみると運よく繋がったので東京に無事報告を依頼した。島根-東京はすぐ通じたらしい。

夜から悪い話があった原発の様子がいよいよやばそうだったので、明け方駅前に行き警察官に国道の様子を聞きにゆくと、う回路を過ぎれば関東まで出られるということなので、即時出発した。国道は応急補修され時々見える東北道は消防車や自衛隊の車両がどんどん北上するのが見えた。国道はノロノロと、それでも平均2-30kmで南下できたが、途中の交差点では全車輌規律正しくスムーズに交差や右左折していたのだが、1か所だけふん詰まりのように動きの悪い交差点があった。なんとその交差点だけ警察官が交通整理をしていた。多くの警察官が浜通り方面に派遣されたあとであるのだろう、ご老体ばかりであった。・・・彼らの存在は原因なのか結果なのか判然としないが、統計学的には前者であろう。

栃木に入ったあたりで店が開いていたので入ってみたら食料は全くなく、ペット飲料だけ残っていたので購入した。その時はすでに原発が水蒸気爆発した後で雨が降っていたのだが、ここは福島じゃないからという全く根拠のない理由で頭から雨を被ってしまったのだが、アホであったな。気が付いて帰宅後すぐにシャワーを浴び、衣類は選択したのだが、未だに禿げていないので大丈夫であったのだろう。

果して帰宅した時にはお土産に持参したレモンケーキ(焼き菓子)24個の内18個が食料として消えていたのだが、あれ以来レモンケーキは一つも口にしていない。 多くの犠牲者をだし不謹慎ではあるが、朝から石巻に向けて出発していたらおそらく石巻グランドホテル(川のそば)に入っていた時間であろうから、垂直避難で助かってはいただろうが新車は無くなっていただろう・・・

犠牲者の冥福を。